2015年07月25日 17:02
2014年11月09日 22:09
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幼き真魚の前に釈迦が姿を現したと伝わる寺
久しぶりにブログを記す。
ここのところ公私共に多忙を極めており、なかなかブログを更新できずにいる。。。
しかし、この四国八十八ヶ所の遍路旅に関しては、完結せねばと思っている。 自身にとって貴重な経験であったという思いを記録に残すという意味と、再びお遍路として四国に向かうときのための参考としたいがためだ。
初めての遍路旅から、すでに1年が経過している。
あの頃・・・自身の心中に迷いが生じており、日々の生活のモチベーションを保つのが難しくなっていた。 ともすれば、目標を見失いがちな日が続いていた。。。
そんな時、思い切って時間を作って出かけた遍路旅・・・とにかく結願をするという大目標のために、次の札所を打つことを小目標として先に進む・・・。 その実にシンプルながら、迷うこととのない確固たる目標を持って行動できる日々が・・・素直に楽しくも心地良くもあった。
あの頃の自身の情況と心情にあって、遍路旅にでるという選択は実に的を得た選択だった・・・本当にそう思う。

さて、この寺は、さすがに弘法大師空海の故郷だということで、弘法大師がまだ真魚と呼ばれていた幼き日の言い伝えが伝わる寺だ。 その言い伝えは・・・幼き日の弘法大師が、この寺で ‘何か’ を感じ ‘何か’ を心に刻んだに違いないと思わせるものだ。

涅槃の道場 七十三番札所 我拝師山 出釈迦寺( 香川県善通寺市吉原町1091番地)
宗派 真言宗御室派
本尊 釈迦如来
開基 (伝)空海(弘法大師)
アクセス 問題なし
寺伝によれば、弘法大師がまだ真魚と呼ばれていた7歳の時に倭斬濃山に登り、「仏門に入って多く人と衆生を救いたいのです。私の願いが叶うなら釈迦如来様、お姿を現して下さい。もし、願いが叶わないのなら私の命を仏に供養します」と願い、山の断崖から谷へと身を投げた。 すると、落下する空海の前に釈迦如来と天女が現れて抱きとめ、「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就された。感激した空海は、釈迦如来が現われた山を「我拝師山」名づけ、その山に出釈迦寺を建立し、釈迦如来の尊像を刻んで本尊としたという。
約300年前までは山頂が札所になっていたが、大正9年に麓の現在地に移された。

山門を進み右に折れると左に納経所があり、正面に本堂、その右側が大師堂と並置されている。 本堂の左の石段を上がると赤い壁の地蔵堂があり、その先に奥之院遥拝所と大きな石の台座に虚空蔵菩薩石像があり、眼前に奥の院のある我拝師山がそびえる。

その奥の院奥之院遥拝所に真魚像も安置されている。 真魚が崖から身を投げたかどうかという真偽はともかくとして・・・幼き日の弘法大師がこの地で志を持つに至る出来事が」あるいはあったやもしれない。 それは、釈迦如来の存在を身近に感じる経験だったのかも・・・しれない。。。

真魚と呼ばれた弘法大師が、この地から眼下に広がる街並みを、その先の海を眺めてから1200以上の時が流れている。 その頃とはすっかり姿を変えた光景を・・・弘法大師はどんな思いで見つめるのか・・・。
そんなことも思いながら、次の札所へと向かった。(出釈迦寺から七十四番札所まで、車道3.3km)

**この記事に何か感じるところがございましたらクリックいただければ幸いです**


幼き真魚の前に釈迦が姿を現したと伝わる寺
久しぶりにブログを記す。
ここのところ公私共に多忙を極めており、なかなかブログを更新できずにいる。。。
しかし、この四国八十八ヶ所の遍路旅に関しては、完結せねばと思っている。 自身にとって貴重な経験であったという思いを記録に残すという意味と、再びお遍路として四国に向かうときのための参考としたいがためだ。
初めての遍路旅から、すでに1年が経過している。
あの頃・・・自身の心中に迷いが生じており、日々の生活のモチベーションを保つのが難しくなっていた。 ともすれば、目標を見失いがちな日が続いていた。。。
そんな時、思い切って時間を作って出かけた遍路旅・・・とにかく結願をするという大目標のために、次の札所を打つことを小目標として先に進む・・・。 その実にシンプルながら、迷うこととのない確固たる目標を持って行動できる日々が・・・素直に楽しくも心地良くもあった。
あの頃の自身の情況と心情にあって、遍路旅にでるという選択は実に的を得た選択だった・・・本当にそう思う。

さて、この寺は、さすがに弘法大師空海の故郷だということで、弘法大師がまだ真魚と呼ばれていた幼き日の言い伝えが伝わる寺だ。 その言い伝えは・・・幼き日の弘法大師が、この寺で ‘何か’ を感じ ‘何か’ を心に刻んだに違いないと思わせるものだ。

涅槃の道場 七十三番札所 我拝師山 出釈迦寺( 香川県善通寺市吉原町1091番地)
宗派 真言宗御室派
本尊 釈迦如来
開基 (伝)空海(弘法大師)
アクセス 問題なし
寺伝によれば、弘法大師がまだ真魚と呼ばれていた7歳の時に倭斬濃山に登り、「仏門に入って多く人と衆生を救いたいのです。私の願いが叶うなら釈迦如来様、お姿を現して下さい。もし、願いが叶わないのなら私の命を仏に供養します」と願い、山の断崖から谷へと身を投げた。 すると、落下する空海の前に釈迦如来と天女が現れて抱きとめ、「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就された。感激した空海は、釈迦如来が現われた山を「我拝師山」名づけ、その山に出釈迦寺を建立し、釈迦如来の尊像を刻んで本尊としたという。
約300年前までは山頂が札所になっていたが、大正9年に麓の現在地に移された。

山門を進み右に折れると左に納経所があり、正面に本堂、その右側が大師堂と並置されている。 本堂の左の石段を上がると赤い壁の地蔵堂があり、その先に奥之院遥拝所と大きな石の台座に虚空蔵菩薩石像があり、眼前に奥の院のある我拝師山がそびえる。

その奥の院奥之院遥拝所に真魚像も安置されている。 真魚が崖から身を投げたかどうかという真偽はともかくとして・・・幼き日の弘法大師がこの地で志を持つに至る出来事が」あるいはあったやもしれない。 それは、釈迦如来の存在を身近に感じる経験だったのかも・・・しれない。。。

真魚と呼ばれた弘法大師が、この地から眼下に広がる街並みを、その先の海を眺めてから1200以上の時が流れている。 その頃とはすっかり姿を変えた光景を・・・弘法大師はどんな思いで見つめるのか・・・。
そんなことも思いながら、次の札所へと向かった。(出釈迦寺から七十四番札所まで、車道3.3km)

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2014年10月28日 05:43
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寄り添い・・・歩く
ネットでこんな記事を目にした。 読んだ人は・・・どう思うだろうか?
臨床的な研究を通じて性の健康推進を図る専門家集団である日本性科学会が、約10年ぶりに中高年夫婦の「セックスレス」の実態に迫る大規模調査を実施した。
日本性科学会とは、「性」の科学的な基礎研究と臨床的研究を行う研究者の団体であり、同時にその成果を多くの人々に広め、個人個人の生活の質を深めるために設けられた研究機関だ。
ネットで性の情報を得やすい時代になった今日だが、自分の性に関する話を調査票に書き込んで他人に明かす抵抗感は強く調査は難航したという。 しかし、そのような調査を経て、中高年の性生活の実相を浮き彫りにする興味深い結果が明らかになった。
医師や看護師らで構成される日本性科学会が行った1,000人規模の大調査。 それが、今回、調査結果がまとめられた中高年男女の性生活について尋ねた「中高年セクシュアリティ調査」だ。

調査は、2011年1月から2012年12月にかけて行われた。 調査対象は関東在住の40歳から79歳までの男女で、平均年齢は男性が59.55歳、女性が57.22歳。
回収した1,242人分の調査票のうち、有効回答者数は1,162人。 内訳は、配偶者のいる男性404人と女性459人、単身の男性が92人と女性207人となっている。
同様の調査は、有配偶者対象が2000年に、単身者対象が2003年にも行なわれており、今回の調査結果と比較すると、10年近くを経た変化が浮き彫りになったという。
まず、顕著なのは、はセックスレスの層化だという。 配偶者のいる男女の挿入を伴う性交渉の頻度を年代別に聞いたところ、「この1年間全くない」と答えたのは、男性全体で52%、女性全体で54%。 2000年調査時の25%、23%からほぼ倍増しており、特に50代は低下が著しいという結果となった。
一方で、単身者のセックスレス比率は2003年調査時と比べてほとんど変化がなく、男性39%、女性58%。 この結果から、有配偶者と単身者のセックスの頻度に、あまり差がなくなってきているとも言える。
この調査では、不倫に直結する配偶者以外の異性との関係についても尋ねている。
結果は、男女ともに「この1年の間に配偶者以外の異性との親密な付き合いがあった人」が増えている。 2012年の調査では、男性の32%、女性の14%が「あり」と答えており、男女ともに2000年調査の約3倍に増えている。
という内容の記事だ。
自分自身もこの調査対象の年齢であり、ちょっと気になったというわけだ。
しかし、配偶者有りの50%以上がセックスレスという結果は・・・少なからず驚きをもって受け止めた。
そもそもセックスレスとは、どのような状態を言うのか・・・
日本性科学会では、1994年にセックスレスを以下のように定義した。 「セックスレスとは、特別な事情がないにもかかわらず、カップルの合意した性交あるいはセクシュアル・コンタクトが1ヶ月以上ないこと」とした。 そして、ここでいう「セクシュアル・コンタクトには、キス、互いの性器などに触れること、裸でのベッドインなども含まれている。
1ヵ月が長いか短いかは、それぞれ個人によって見解の相違はあると思うが・・・セックス、あるいはセクシュアル・コンタクは、配偶者、またはパートナーを異性、あるいは性的な欲求の対象としているからこその行為であろうし、それがまったく無いといというのは、相手(または互い)を性的行為の対象と見なせなくなったか、性衝動が起こらないかということになるのだろう。
誤解のないよう述べておくが、私自身は、「セックスの有無=愛情の有無」だとは思っていない。 セックスが無くとも、互いに愛情を感じている夫婦やカップルはいると思う。
現に、私がかつてつき合った女性(40歳代前半)は、8年にも及ぶセックスレスな夫を 「愛している」 と言う。 だが、「レスなこの状態を良いとは思っていない」 とも言う。 しかし、「8年もセックスしていないと、どうやってまたセックスのある関係に戻せるのかがわからない」 とも言う。
そうだろうと思う。 私自身も、離婚前の3年ほどはレスな夫婦関係を経験している。 あらためて・・・というのは、まったく関係の無かった人とセックスをするようになることよりも実は難しいのかもしれないとも思ったりする。
ただし、私の場合、そのレスな夫婦生活の期間中にセックスそのものをしなかったというわけではない。 調査結果にもある配偶者以外の異性との親密な関係があったという範疇に入る。
調査結果から私なりに考察を深めると・・・配偶者に対する愛情とセックスが乖離する傾向が進んでいるのかもしれないとも思ったりする。 それが、良いのか悪いのかは・・・一概には言えないとは思ったりもするのだが・・・それでもやはり、セックスを共に楽しめる夫婦関係であるにこしたことはないと思う。
この記事を読んでいる・・・あなた・・・いかがですか? 配偶者、パートナーとセックスを楽しんる? セクシュアルな時間を共有してる?
時には・・・自らのセックスに真正面から向き合って考えてみることも必要なんだと・・・そう思う。

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寄り添い・・・歩く
ネットでこんな記事を目にした。 読んだ人は・・・どう思うだろうか?
臨床的な研究を通じて性の健康推進を図る専門家集団である日本性科学会が、約10年ぶりに中高年夫婦の「セックスレス」の実態に迫る大規模調査を実施した。
日本性科学会とは、「性」の科学的な基礎研究と臨床的研究を行う研究者の団体であり、同時にその成果を多くの人々に広め、個人個人の生活の質を深めるために設けられた研究機関だ。
ネットで性の情報を得やすい時代になった今日だが、自分の性に関する話を調査票に書き込んで他人に明かす抵抗感は強く調査は難航したという。 しかし、そのような調査を経て、中高年の性生活の実相を浮き彫りにする興味深い結果が明らかになった。
医師や看護師らで構成される日本性科学会が行った1,000人規模の大調査。 それが、今回、調査結果がまとめられた中高年男女の性生活について尋ねた「中高年セクシュアリティ調査」だ。

調査は、2011年1月から2012年12月にかけて行われた。 調査対象は関東在住の40歳から79歳までの男女で、平均年齢は男性が59.55歳、女性が57.22歳。
回収した1,242人分の調査票のうち、有効回答者数は1,162人。 内訳は、配偶者のいる男性404人と女性459人、単身の男性が92人と女性207人となっている。
同様の調査は、有配偶者対象が2000年に、単身者対象が2003年にも行なわれており、今回の調査結果と比較すると、10年近くを経た変化が浮き彫りになったという。
まず、顕著なのは、はセックスレスの層化だという。 配偶者のいる男女の挿入を伴う性交渉の頻度を年代別に聞いたところ、「この1年間全くない」と答えたのは、男性全体で52%、女性全体で54%。 2000年調査時の25%、23%からほぼ倍増しており、特に50代は低下が著しいという結果となった。
一方で、単身者のセックスレス比率は2003年調査時と比べてほとんど変化がなく、男性39%、女性58%。 この結果から、有配偶者と単身者のセックスの頻度に、あまり差がなくなってきているとも言える。
この調査では、不倫に直結する配偶者以外の異性との関係についても尋ねている。
結果は、男女ともに「この1年の間に配偶者以外の異性との親密な付き合いがあった人」が増えている。 2012年の調査では、男性の32%、女性の14%が「あり」と答えており、男女ともに2000年調査の約3倍に増えている。
という内容の記事だ。
自分自身もこの調査対象の年齢であり、ちょっと気になったというわけだ。
しかし、配偶者有りの50%以上がセックスレスという結果は・・・少なからず驚きをもって受け止めた。
そもそもセックスレスとは、どのような状態を言うのか・・・
日本性科学会では、1994年にセックスレスを以下のように定義した。 「セックスレスとは、特別な事情がないにもかかわらず、カップルの合意した性交あるいはセクシュアル・コンタクトが1ヶ月以上ないこと」とした。 そして、ここでいう「セクシュアル・コンタクトには、キス、互いの性器などに触れること、裸でのベッドインなども含まれている。
1ヵ月が長いか短いかは、それぞれ個人によって見解の相違はあると思うが・・・セックス、あるいはセクシュアル・コンタクは、配偶者、またはパートナーを異性、あるいは性的な欲求の対象としているからこその行為であろうし、それがまったく無いといというのは、相手(または互い)を性的行為の対象と見なせなくなったか、性衝動が起こらないかということになるのだろう。
誤解のないよう述べておくが、私自身は、「セックスの有無=愛情の有無」だとは思っていない。 セックスが無くとも、互いに愛情を感じている夫婦やカップルはいると思う。
現に、私がかつてつき合った女性(40歳代前半)は、8年にも及ぶセックスレスな夫を 「愛している」 と言う。 だが、「レスなこの状態を良いとは思っていない」 とも言う。 しかし、「8年もセックスしていないと、どうやってまたセックスのある関係に戻せるのかがわからない」 とも言う。
そうだろうと思う。 私自身も、離婚前の3年ほどはレスな夫婦関係を経験している。 あらためて・・・というのは、まったく関係の無かった人とセックスをするようになることよりも実は難しいのかもしれないとも思ったりする。
ただし、私の場合、そのレスな夫婦生活の期間中にセックスそのものをしなかったというわけではない。 調査結果にもある配偶者以外の異性との親密な関係があったという範疇に入る。
調査結果から私なりに考察を深めると・・・配偶者に対する愛情とセックスが乖離する傾向が進んでいるのかもしれないとも思ったりする。 それが、良いのか悪いのかは・・・一概には言えないとは思ったりもするのだが・・・それでもやはり、セックスを共に楽しめる夫婦関係であるにこしたことはないと思う。
この記事を読んでいる・・・あなた・・・いかがですか? 配偶者、パートナーとセックスを楽しんる? セクシュアルな時間を共有してる?
時には・・・自らのセックスに真正面から向き合って考えてみることも必要なんだと・・・そう思う。

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2014年10月20日 23:58
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アンネ・フランク縁のバラ

このバラは、「アンネのバラ」と呼ばれる。
「アンネのバラ」とは・・・アンネ・フランクと同様に強制収容所に入れられ、なんとか生還したベルギーのバラ育種家デルフォルグさんが1960年に育成した新品種で、「Souv.d'Anne Frank」(スヴニール・ドウ・アンネ・フランク)「アンネの形見のバラ」と命名さたバラだ。
その「アンネのバラ」が日本にやってきたのは1972年。 その前年、1971年に日本とイスラエルの文化交流のために日本の合唱団がイスラエルを訪問した。
その際、合唱団のは、イスラエルのレストランで偶然アンネ・フランクの父であるオットー・フランク氏に出会った。 「アンネの日記」のことはもちろん合唱団の人々もよく知っていたので、その時から合唱団の方々とオットー氏との交流が始まった。
そして、1年後にはオットー氏の好意により「アンネの形見のバラ」10株が日本に送られることとなった。 ところが、輸送事情の悪さから苗木の到着までに1ヶ月もかかってしまい、10株のうち9株が枯れ、たった1株だけが合唱団の一員で聖イエス会の創設者でもある大槻氏の庭に根付いたのだ。
アンネ縁のそのバラのことは、その後、大槻さんと「アンネの日記」を読んだ学生たちの交流からその存在が広く知られるようになり、「アンネのバラを育たい」という学生たちの希望を受け、オットー氏は更に10株のバラ苗を日本に送ってくれたのだ。
この苗を園芸家や学生たちが接木をして増やしていった結果、現在では日本中でアンネのバラが栽培されるようになったというわけだ。
このバラに名付けられた「アンネの形見のバラ」という名が付けられるに至るまで・・・何があったのかを忘れてはならない。 それを、この可憐なバラは観る者に訴え続けている。

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アンネ・フランク縁のバラ

このバラは、「アンネのバラ」と呼ばれる。
「アンネのバラ」とは・・・アンネ・フランクと同様に強制収容所に入れられ、なんとか生還したベルギーのバラ育種家デルフォルグさんが1960年に育成した新品種で、「Souv.d'Anne Frank」(スヴニール・ドウ・アンネ・フランク)「アンネの形見のバラ」と命名さたバラだ。
その「アンネのバラ」が日本にやってきたのは1972年。 その前年、1971年に日本とイスラエルの文化交流のために日本の合唱団がイスラエルを訪問した。
その際、合唱団のは、イスラエルのレストランで偶然アンネ・フランクの父であるオットー・フランク氏に出会った。 「アンネの日記」のことはもちろん合唱団の人々もよく知っていたので、その時から合唱団の方々とオットー氏との交流が始まった。
そして、1年後にはオットー氏の好意により「アンネの形見のバラ」10株が日本に送られることとなった。 ところが、輸送事情の悪さから苗木の到着までに1ヶ月もかかってしまい、10株のうち9株が枯れ、たった1株だけが合唱団の一員で聖イエス会の創設者でもある大槻氏の庭に根付いたのだ。
アンネ縁のそのバラのことは、その後、大槻さんと「アンネの日記」を読んだ学生たちの交流からその存在が広く知られるようになり、「アンネのバラを育たい」という学生たちの希望を受け、オットー氏は更に10株のバラ苗を日本に送ってくれたのだ。
この苗を園芸家や学生たちが接木をして増やしていった結果、現在では日本中でアンネのバラが栽培されるようになったというわけだ。
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2014年10月15日 23:45
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闇に包まれていく薔薇

夕刻の散歩の最中、秋咲きの薔薇に出会った。 真紅の薔薇・・・宵闇色を背景にしたその花色は、どこか妖しくもかんじられるほどに濃厚に感じられた。
一般的に、秋咲く薔薇は、春の薔薇に比べて花の色が鮮やかだといわれる。 それは昼間と夜の温度差が大きいからだという。 花の色が鮮やかならば・・・その香りも強いらしい。 深まる闇に包まれて、その姿は見えなくとも・・・放たれる香りで、その花の在ることを知るということもあるのかも。。。

闇に浮かび上がるような白い薔薇。 ハッとするような白さが鮮烈だ。 だが、闇の中に咲く姿が似合うのは・・・真紅の薔薇のほうが似合うような気がするのだが。。。 いかがだろうか?

話しは変わるが・・・。
この数日の間に、しばらく連絡を取り合っていなかった女性二人から相次いで連絡があった。 二人とも常時連絡をし合うというわけではないのだが・・・一旦話し始めればブランクは感じることなく話はできる。 なぜ唐突に連絡してきたのか・・・詳しいことは聞いてはいない。 聞かなくとも、話したいと思うならば、そんな話しにもなるのだろう。
しかし、相次ぐようにそんなお久しぶりな連絡が入るのが・・・ちょっとおもしろかったりした。 色鮮やかな秋薔薇が咲く季節・・・ちょっと人恋しく感じられる夜もあったりする。 ということか・・・?

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闇に包まれていく薔薇

夕刻の散歩の最中、秋咲きの薔薇に出会った。 真紅の薔薇・・・宵闇色を背景にしたその花色は、どこか妖しくもかんじられるほどに濃厚に感じられた。
一般的に、秋咲く薔薇は、春の薔薇に比べて花の色が鮮やかだといわれる。 それは昼間と夜の温度差が大きいからだという。 花の色が鮮やかならば・・・その香りも強いらしい。 深まる闇に包まれて、その姿は見えなくとも・・・放たれる香りで、その花の在ることを知るということもあるのかも。。。

闇に浮かび上がるような白い薔薇。 ハッとするような白さが鮮烈だ。 だが、闇の中に咲く姿が似合うのは・・・真紅の薔薇のほうが似合うような気がするのだが。。。 いかがだろうか?

話しは変わるが・・・。
この数日の間に、しばらく連絡を取り合っていなかった女性二人から相次いで連絡があった。 二人とも常時連絡をし合うというわけではないのだが・・・一旦話し始めればブランクは感じることなく話はできる。 なぜ唐突に連絡してきたのか・・・詳しいことは聞いてはいない。 聞かなくとも、話したいと思うならば、そんな話しにもなるのだろう。
しかし、相次ぐようにそんなお久しぶりな連絡が入るのが・・・ちょっとおもしろかったりした。 色鮮やかな秋薔薇が咲く季節・・・ちょっと人恋しく感じられる夜もあったりする。 ということか・・・?

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2014年10月12日 23:56
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満開近い十月桜

日曜日、お昼前までベッドの中にいた。 窓の外を見れば、薄曇り。 台風の影響で天気が悪くなるかと思っていたのだが、思いの外に穏やかな日となっていた。
焼きたてのパンが美味しい店でゆっくりとランチをすませた後、知多市の大興寺に向かった。 通称、だるまの寺と呼ばれて親しまれている寺だ。

この寺の歴史は、約1250年前(神亀年間)に行基菩薩の作と伝えられる大日如来にはじまる。 .正和年中(1312~1317)頃、三河の国吉良一色の地より遷ってきた一色太朗範氏は、この地を領有、諸所巡見の折、荒廃したお堂を再興し、そこに祀られていた威厳と慈悲の両相を具有した大日如来を尊崇し、京都天龍寺より夢窓国師を勧請開山に迎え、寺名を大興寺と改めた。
以後、幾度かの戦乱によって荒廃しましたが、先師方の努力により、寛文6年(1667年※江戸時代)妙心寺派となり、現在に至っている。

こにお寺とだるまのつながりは、ご本尊の大日如来と、波頭万里の波を越えて七転八起の強い精神力を持って、インドより中国に仏法を伝えられた達磨大師の分身であつだるまが「大日福だるま」として崇拝されたことによるものらしい。 その「大日福だるま」は、別名「念ずれば花開くだるま」とも呼ばれる。
大日如来とだるまを慕う人々が願いを記ただるま絵馬がたくさん奉納されていた。




この寺の境内には、なんとなぅ可愛い石仏、石像が置かれているのが印象的だった。。。
上の写真の後方を見ていただきたい。 白い花が咲いているのがおわかりだろうか・・・? 秋にも花を咲かせる十月桜だ。 なんとなくその桜に吸い寄せられるように、その桜の方に歩いて行った。。。
実は、この寺に来たのは、近くの田畑に植えられた秋桜の群生地があるとネットで情報を得ていたからだ。 その秋桜畑を求めて、境内を出てのどかな田園の中の道を東に向かって歩いて行くと・・・秋桜とは違う花との出会いがあった。


なんと・・・寺の東面に何本もの十月桜が植えられており、それらの桜がほぼ満開を迎えて・・・まるで春のような光景が広がっていたのだ。 知らなかった。。。 この地にこんなたくさんの秋咲く桜があったとは。。。

寺から歩いてきた桜並木が続く道を振り返ってみると・・・桜一杯の光景は、およそ秋とは思えない、桜咲く春の風情だ。 少し季節感を困惑させられるような感じすらした。

少し高台に登ってみた。 高台に設えられたベンチから眺める光景は・・・桜一杯の光景だった。


その高台から東を見やれば・・・稲刈りを終えた田、これから稲刈りを迎える田と・・・秋の光景が広がる。 その秋の光景を背景に咲く桜花。 秋と春が交じり合ったような光景だ。
残念ながら、今年は秋桜は植えられていないようだったが・・・その代わりに予期していなかった十月桜が群れ咲く光景と出会うことができた田園風景の中を歩く散歩となった。


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満開近い十月桜

日曜日、お昼前までベッドの中にいた。 窓の外を見れば、薄曇り。 台風の影響で天気が悪くなるかと思っていたのだが、思いの外に穏やかな日となっていた。
焼きたてのパンが美味しい店でゆっくりとランチをすませた後、知多市の大興寺に向かった。 通称、だるまの寺と呼ばれて親しまれている寺だ。

この寺の歴史は、約1250年前(神亀年間)に行基菩薩の作と伝えられる大日如来にはじまる。 .正和年中(1312~1317)頃、三河の国吉良一色の地より遷ってきた一色太朗範氏は、この地を領有、諸所巡見の折、荒廃したお堂を再興し、そこに祀られていた威厳と慈悲の両相を具有した大日如来を尊崇し、京都天龍寺より夢窓国師を勧請開山に迎え、寺名を大興寺と改めた。
以後、幾度かの戦乱によって荒廃しましたが、先師方の努力により、寛文6年(1667年※江戸時代)妙心寺派となり、現在に至っている。

こにお寺とだるまのつながりは、ご本尊の大日如来と、波頭万里の波を越えて七転八起の強い精神力を持って、インドより中国に仏法を伝えられた達磨大師の分身であつだるまが「大日福だるま」として崇拝されたことによるものらしい。 その「大日福だるま」は、別名「念ずれば花開くだるま」とも呼ばれる。
大日如来とだるまを慕う人々が願いを記ただるま絵馬がたくさん奉納されていた。




この寺の境内には、なんとなぅ可愛い石仏、石像が置かれているのが印象的だった。。。
上の写真の後方を見ていただきたい。 白い花が咲いているのがおわかりだろうか・・・? 秋にも花を咲かせる十月桜だ。 なんとなくその桜に吸い寄せられるように、その桜の方に歩いて行った。。。
実は、この寺に来たのは、近くの田畑に植えられた秋桜の群生地があるとネットで情報を得ていたからだ。 その秋桜畑を求めて、境内を出てのどかな田園の中の道を東に向かって歩いて行くと・・・秋桜とは違う花との出会いがあった。


なんと・・・寺の東面に何本もの十月桜が植えられており、それらの桜がほぼ満開を迎えて・・・まるで春のような光景が広がっていたのだ。 知らなかった。。。 この地にこんなたくさんの秋咲く桜があったとは。。。

寺から歩いてきた桜並木が続く道を振り返ってみると・・・桜一杯の光景は、およそ秋とは思えない、桜咲く春の風情だ。 少し季節感を困惑させられるような感じすらした。

少し高台に登ってみた。 高台に設えられたベンチから眺める光景は・・・桜一杯の光景だった。


その高台から東を見やれば・・・稲刈りを終えた田、これから稲刈りを迎える田と・・・秋の光景が広がる。 その秋の光景を背景に咲く桜花。 秋と春が交じり合ったような光景だ。
残念ながら、今年は秋桜は植えられていないようだったが・・・その代わりに予期していなかった十月桜が群れ咲く光景と出会うことができた田園風景の中を歩く散歩となった。


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2014年10月10日 23:40
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日常の田園風景・・・なのだが。。。

数日前のこと・・・。
田園風景が広がる場所を車で走っていた。 その田園風景と街並みの遠くの山々をぼんやりと眺めていた。 ふと、様子がおかしい雲があることに気付いた。
他の雲は、横に広がっているのに・・・その雲だけは、縦に湧き上がる小さな積乱雲のような感じがした。 目を凝らすと・・・その雲が湧いている下に薄っすらと・・・山があるのに気付いた。 雲ではない。 噴煙だ。
その噴煙の下、多くの人が命を失った。 あの噴煙の下、今も必死の捜索が続けられている。 そして、あの山の麓には、多くの悲しみと、切なる願いと焦燥感が。。。
御嶽山。 何年か前、私も登頂を目指してロープウェイで中腹まで上がったことがある。 ところが、天気の急変で断念。 それでも、いつかは登ろうと思っていた山だ。 豊かな自然だけではなく、篤い信仰の対象となっている山だ。 しかし・・・その山が牙をむいた。。。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、ご家族、近親者の皆さんの心情を慮ることしできないが・・・。

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日常の田園風景・・・なのだが。。。

数日前のこと・・・。
田園風景が広がる場所を車で走っていた。 その田園風景と街並みの遠くの山々をぼんやりと眺めていた。 ふと、様子がおかしい雲があることに気付いた。
他の雲は、横に広がっているのに・・・その雲だけは、縦に湧き上がる小さな積乱雲のような感じがした。 目を凝らすと・・・その雲が湧いている下に薄っすらと・・・山があるのに気付いた。 雲ではない。 噴煙だ。
その噴煙の下、多くの人が命を失った。 あの噴煙の下、今も必死の捜索が続けられている。 そして、あの山の麓には、多くの悲しみと、切なる願いと焦燥感が。。。
御嶽山。 何年か前、私も登頂を目指してロープウェイで中腹まで上がったことがある。 ところが、天気の急変で断念。 それでも、いつかは登ろうと思っていた山だ。 豊かな自然だけではなく、篤い信仰の対象となっている山だ。 しかし・・・その山が牙をむいた。。。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、ご家族、近親者の皆さんの心情を慮ることしできないが・・・。

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