2015年07月25日 17:02
2014年11月09日 22:09
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幼き真魚の前に釈迦が姿を現したと伝わる寺
久しぶりにブログを記す。
ここのところ公私共に多忙を極めており、なかなかブログを更新できずにいる。。。
しかし、この四国八十八ヶ所の遍路旅に関しては、完結せねばと思っている。 自身にとって貴重な経験であったという思いを記録に残すという意味と、再びお遍路として四国に向かうときのための参考としたいがためだ。
初めての遍路旅から、すでに1年が経過している。
あの頃・・・自身の心中に迷いが生じており、日々の生活のモチベーションを保つのが難しくなっていた。 ともすれば、目標を見失いがちな日が続いていた。。。
そんな時、思い切って時間を作って出かけた遍路旅・・・とにかく結願をするという大目標のために、次の札所を打つことを小目標として先に進む・・・。 その実にシンプルながら、迷うこととのない確固たる目標を持って行動できる日々が・・・素直に楽しくも心地良くもあった。
あの頃の自身の情況と心情にあって、遍路旅にでるという選択は実に的を得た選択だった・・・本当にそう思う。

さて、この寺は、さすがに弘法大師空海の故郷だということで、弘法大師がまだ真魚と呼ばれていた幼き日の言い伝えが伝わる寺だ。 その言い伝えは・・・幼き日の弘法大師が、この寺で ‘何か’ を感じ ‘何か’ を心に刻んだに違いないと思わせるものだ。

涅槃の道場 七十三番札所 我拝師山 出釈迦寺( 香川県善通寺市吉原町1091番地)
宗派 真言宗御室派
本尊 釈迦如来
開基 (伝)空海(弘法大師)
アクセス 問題なし
寺伝によれば、弘法大師がまだ真魚と呼ばれていた7歳の時に倭斬濃山に登り、「仏門に入って多く人と衆生を救いたいのです。私の願いが叶うなら釈迦如来様、お姿を現して下さい。もし、願いが叶わないのなら私の命を仏に供養します」と願い、山の断崖から谷へと身を投げた。 すると、落下する空海の前に釈迦如来と天女が現れて抱きとめ、「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就された。感激した空海は、釈迦如来が現われた山を「我拝師山」名づけ、その山に出釈迦寺を建立し、釈迦如来の尊像を刻んで本尊としたという。
約300年前までは山頂が札所になっていたが、大正9年に麓の現在地に移された。

山門を進み右に折れると左に納経所があり、正面に本堂、その右側が大師堂と並置されている。 本堂の左の石段を上がると赤い壁の地蔵堂があり、その先に奥之院遥拝所と大きな石の台座に虚空蔵菩薩石像があり、眼前に奥の院のある我拝師山がそびえる。

その奥の院奥之院遥拝所に真魚像も安置されている。 真魚が崖から身を投げたかどうかという真偽はともかくとして・・・幼き日の弘法大師がこの地で志を持つに至る出来事が」あるいはあったやもしれない。 それは、釈迦如来の存在を身近に感じる経験だったのかも・・・しれない。。。

真魚と呼ばれた弘法大師が、この地から眼下に広がる街並みを、その先の海を眺めてから1200以上の時が流れている。 その頃とはすっかり姿を変えた光景を・・・弘法大師はどんな思いで見つめるのか・・・。
そんなことも思いながら、次の札所へと向かった。(出釈迦寺から七十四番札所まで、車道3.3km)

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幼き真魚の前に釈迦が姿を現したと伝わる寺
久しぶりにブログを記す。
ここのところ公私共に多忙を極めており、なかなかブログを更新できずにいる。。。
しかし、この四国八十八ヶ所の遍路旅に関しては、完結せねばと思っている。 自身にとって貴重な経験であったという思いを記録に残すという意味と、再びお遍路として四国に向かうときのための参考としたいがためだ。
初めての遍路旅から、すでに1年が経過している。
あの頃・・・自身の心中に迷いが生じており、日々の生活のモチベーションを保つのが難しくなっていた。 ともすれば、目標を見失いがちな日が続いていた。。。
そんな時、思い切って時間を作って出かけた遍路旅・・・とにかく結願をするという大目標のために、次の札所を打つことを小目標として先に進む・・・。 その実にシンプルながら、迷うこととのない確固たる目標を持って行動できる日々が・・・素直に楽しくも心地良くもあった。
あの頃の自身の情況と心情にあって、遍路旅にでるという選択は実に的を得た選択だった・・・本当にそう思う。

さて、この寺は、さすがに弘法大師空海の故郷だということで、弘法大師がまだ真魚と呼ばれていた幼き日の言い伝えが伝わる寺だ。 その言い伝えは・・・幼き日の弘法大師が、この寺で ‘何か’ を感じ ‘何か’ を心に刻んだに違いないと思わせるものだ。

涅槃の道場 七十三番札所 我拝師山 出釈迦寺( 香川県善通寺市吉原町1091番地)
宗派 真言宗御室派
本尊 釈迦如来
開基 (伝)空海(弘法大師)
アクセス 問題なし
寺伝によれば、弘法大師がまだ真魚と呼ばれていた7歳の時に倭斬濃山に登り、「仏門に入って多く人と衆生を救いたいのです。私の願いが叶うなら釈迦如来様、お姿を現して下さい。もし、願いが叶わないのなら私の命を仏に供養します」と願い、山の断崖から谷へと身を投げた。 すると、落下する空海の前に釈迦如来と天女が現れて抱きとめ、「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就された。感激した空海は、釈迦如来が現われた山を「我拝師山」名づけ、その山に出釈迦寺を建立し、釈迦如来の尊像を刻んで本尊としたという。
約300年前までは山頂が札所になっていたが、大正9年に麓の現在地に移された。

山門を進み右に折れると左に納経所があり、正面に本堂、その右側が大師堂と並置されている。 本堂の左の石段を上がると赤い壁の地蔵堂があり、その先に奥之院遥拝所と大きな石の台座に虚空蔵菩薩石像があり、眼前に奥の院のある我拝師山がそびえる。

その奥の院奥之院遥拝所に真魚像も安置されている。 真魚が崖から身を投げたかどうかという真偽はともかくとして・・・幼き日の弘法大師がこの地で志を持つに至る出来事が」あるいはあったやもしれない。 それは、釈迦如来の存在を身近に感じる経験だったのかも・・・しれない。。。

真魚と呼ばれた弘法大師が、この地から眼下に広がる街並みを、その先の海を眺めてから1200以上の時が流れている。 その頃とはすっかり姿を変えた光景を・・・弘法大師はどんな思いで見つめるのか・・・。
そんなことも思いながら、次の札所へと向かった。(出釈迦寺から七十四番札所まで、車道3.3km)

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2014年10月06日 22:56
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佐伯氏の氏寺として創建された寺


涅槃の道場 七十二番札所 我拝師山 曼荼羅寺( 香川県善通寺市吉原町1380番地1)
宗派 真言宗善通寺派
本尊 大日如来
創建年 (伝)推古天皇4年(596年)
開基 (伝)行基
アクセス 概ね問題なし
寺伝によれば、空海(弘法大師)の出身氏族である佐伯氏の氏寺として推古天皇4年(596年)に創建され、当初は世坂寺(よさかでら)と称したという。
空海が唐より帰国後、請来した金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を安置し、大日如来を本尊として再興。 母(伝承では玉依御前)の菩提寺とし、山号・我拝師山、寺号・延命院曼荼羅寺と改称したと伝える。
空海の手植えとされた「不老松」があったが、2002年に枯死している。
四国の中でもさすがに香川は弘法大師・空海の故郷・・・他の県では、大人になってからの空海に縁の伝承が多いが、香川では、眞魚と呼ばれた頃の幼い空海の伝承や空海の父母や一族の佐伯氏の伝承などが多い。 将来、空海と名乗り、弘法大師として千年の時を越えて衆生の信仰を集めることになるとは本人も知りえない、幼き眞魚も、この寺の境内を歩いたのかもしれない。 そう思うと、これまで発心~修行~菩提とお遍路してくる道中では、我らを導いてくれる偉大な存在であった弘法大師・空海であった人物が・・・我々と同じ人の子としての幼き頃もあったのだと、香川・涅槃の道場では感じられたりする。
それは、お遍路の終盤を迎え、なにやら弘法大師・空海の懐に少し入り込むことができるような・・・そんな感じもする。 そう感じらたのも・・・私のお遍路終盤を迎えているという心情だったか。。。 あるいは、四国霊場めぐりの札所の並びの妙味か。。。
どことなくお地蔵様の風情と重なる大師像に見送られて、次の札所へと向かった。(曼荼羅寺から七十三番札所まで、車道0.5km)

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佐伯氏の氏寺として創建された寺


涅槃の道場 七十二番札所 我拝師山 曼荼羅寺( 香川県善通寺市吉原町1380番地1)
宗派 真言宗善通寺派
本尊 大日如来
創建年 (伝)推古天皇4年(596年)
開基 (伝)行基
アクセス 概ね問題なし
寺伝によれば、空海(弘法大師)の出身氏族である佐伯氏の氏寺として推古天皇4年(596年)に創建され、当初は世坂寺(よさかでら)と称したという。
空海が唐より帰国後、請来した金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を安置し、大日如来を本尊として再興。 母(伝承では玉依御前)の菩提寺とし、山号・我拝師山、寺号・延命院曼荼羅寺と改称したと伝える。
空海の手植えとされた「不老松」があったが、2002年に枯死している。
四国の中でもさすがに香川は弘法大師・空海の故郷・・・他の県では、大人になってからの空海に縁の伝承が多いが、香川では、眞魚と呼ばれた頃の幼い空海の伝承や空海の父母や一族の佐伯氏の伝承などが多い。 将来、空海と名乗り、弘法大師として千年の時を越えて衆生の信仰を集めることになるとは本人も知りえない、幼き眞魚も、この寺の境内を歩いたのかもしれない。 そう思うと、これまで発心~修行~菩提とお遍路してくる道中では、我らを導いてくれる偉大な存在であった弘法大師・空海であった人物が・・・我々と同じ人の子としての幼き頃もあったのだと、香川・涅槃の道場では感じられたりする。
それは、お遍路の終盤を迎え、なにやら弘法大師・空海の懐に少し入り込むことができるような・・・そんな感じもする。 そう感じらたのも・・・私のお遍路終盤を迎えているという心情だったか。。。 あるいは、四国霊場めぐりの札所の並びの妙味か。。。
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2014年10月05日 23:52
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躍動感溢れる弘法大師像

七十一番札所の弥谷寺は、この仁王門から先も境内までの道のりが長い。。。 なんせ、四国霊場でも有数の難所で知られ健康でなければ参拝できない事から病厄に霊験ありと言われてきた札所だからだ。 境内口から山頂の本堂まで、およそ540段の石段を登ることになる。 ちょっとした登山並みだ。
この寺のある弥谷山は、古来より霊山として信仰された山で、日本三大霊場(恐山・臼杵磨崖仏・弥谷山)の一つに数えられたと言われている。 そのためか、はるか続くかと思われる石段脇に様々な石仏が見られた。



古来から、人々は山に仏や神が宿ると信じ、その山を霊山と呼び信仰の対象としてきた。 この信仰は、お遍路の元となった、辺(遍)路信仰(へじしんこう)の一つであるともいわれ、弥谷山では、水場の洞窟が仏の住む世界への入口とされ、特別強く信仰され、霊山信仰を持った修験者により刻まれた摩崖仏が今も多く点在している。


本堂下にある高さ12といわれる大きな岩盤面に刻まれた、鎌倉時代のものと伝えられている「弥陀三尊」もそんな磨崖仏の一つ。 弘法大師作ともいわれ、重要文化財に指定されている。 念仏すると、極楽浄土に行くことができるとの信仰が伝えられている。



長い石段を息を切らしながら登ってきて・・・本堂、大師堂までもう少し・・・そう思って振り返れば、なかなかの眺望が。。。 やっぱり・・・この参道は、登山並みだ(汗)
じつか、この場所で再会があった。 前日、「車遍路転がし」かとも思われるようなきつい車道を共に走った千葉の青年が、この場所のベンチで参拝前に息を整えていた。 ‘キツイ石段だね~’ そう言って、私も彼が座るベンチに腰を下ろした。 ひとしきり、昨日分かれてから今日の再会までの互いの遍路模様を話し合った。 私より半日早く、次の日のお昼くらいには結願を目指す彼は、少々焦っていた。 この日の朝、これまでの遍路疲れで予定時間より寝坊したらしく、少し行程が遅れているとのこと。 だから、私と少し話した後、互いに ‘気をつけて’ と言葉を交わすといそいそと参拝に向かった。 この千葉の青年とは、この後会うことは無かったが・・・無事に結願して、千葉に戻って、元気に暮らしているだろうか・・・。 何度も会って、互いに写真好きということもあったので、連絡先の交換でもしておけば良かったな・・・とも思う。


涅槃の道場 七十一番札所 剣五山 弥谷寺(香川県三豊市三野町大見乙70)
宗派 真言宗善通寺派
寺格 大本山
本尊 千手観音
創建年 (伝)奈良時代
開基 (伝)行基、聖武天皇(勅願)
アクセス 石段を登りはじめる前までの道は問題なし
寺伝によれば、聖武天皇の勅願により行基が堂宇を建立し、光明皇后の菩提を弔う為、『大方広仏華厳経(伝・光明皇后書写)』を祀り、寺院を創建したとされる。当初は中国、四国の八国が眺められたことにちなみ蓮華山八国寺と称したという。 また、空海(弘法大師)は7 - 12歳の期間、当寺にある岩窟である獅子之岩屋で学問に励んだという。
807(大同2年)、唐より帰国後の空海は当地を再び訪問し蔵王権現のお告げにより千手観音を安置し伽藍を再興し、山号を剣五山千手院、寺名を弥谷寺と改めたという。 空海は、現在、岩窟の護摩堂と呼ばれる洞窟や獅子之岩屋で護摩を修し、寺宝の『金銅四天王五鈷鈴』を納めたとされる。
また、「此岩窟大師四十二歳ノ契天下泰平五穀豊壌或ハ四十二歳厄除衆生ヲ救為千座之護摩修行シ跡伝ワレリ」とあり、これを聞いた後の住持が大師堂再建の折に弘法大師42才のお姿を刻み、奥之院本尊として厄除大師を祀ったといわれ、その後(焼失・盗難を恐れたなど諸説有り)、岩屋の中に石仏の厄除大師像・佐伯善通卿像・玉寄御前像を建立し、それまで祀っていた木像を秘仏としたことから、2体の厄除大師像が祀られている。
参拝後、風に向かって歩いていくような躍動感を感じる弘法大師像にしばし見入った。 その大師像に見送られるような心持ちで、登ってきた500有余の石段を下って次の札所を目指した。(弥谷寺から七十二番札所まで、車道5km)

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躍動感溢れる弘法大師像

七十一番札所の弥谷寺は、この仁王門から先も境内までの道のりが長い。。。 なんせ、四国霊場でも有数の難所で知られ健康でなければ参拝できない事から病厄に霊験ありと言われてきた札所だからだ。 境内口から山頂の本堂まで、およそ540段の石段を登ることになる。 ちょっとした登山並みだ。
この寺のある弥谷山は、古来より霊山として信仰された山で、日本三大霊場(恐山・臼杵磨崖仏・弥谷山)の一つに数えられたと言われている。 そのためか、はるか続くかと思われる石段脇に様々な石仏が見られた。



古来から、人々は山に仏や神が宿ると信じ、その山を霊山と呼び信仰の対象としてきた。 この信仰は、お遍路の元となった、辺(遍)路信仰(へじしんこう)の一つであるともいわれ、弥谷山では、水場の洞窟が仏の住む世界への入口とされ、特別強く信仰され、霊山信仰を持った修験者により刻まれた摩崖仏が今も多く点在している。


本堂下にある高さ12といわれる大きな岩盤面に刻まれた、鎌倉時代のものと伝えられている「弥陀三尊」もそんな磨崖仏の一つ。 弘法大師作ともいわれ、重要文化財に指定されている。 念仏すると、極楽浄土に行くことができるとの信仰が伝えられている。



長い石段を息を切らしながら登ってきて・・・本堂、大師堂までもう少し・・・そう思って振り返れば、なかなかの眺望が。。。 やっぱり・・・この参道は、登山並みだ(汗)
じつか、この場所で再会があった。 前日、「車遍路転がし」かとも思われるようなきつい車道を共に走った千葉の青年が、この場所のベンチで参拝前に息を整えていた。 ‘キツイ石段だね~’ そう言って、私も彼が座るベンチに腰を下ろした。 ひとしきり、昨日分かれてから今日の再会までの互いの遍路模様を話し合った。 私より半日早く、次の日のお昼くらいには結願を目指す彼は、少々焦っていた。 この日の朝、これまでの遍路疲れで予定時間より寝坊したらしく、少し行程が遅れているとのこと。 だから、私と少し話した後、互いに ‘気をつけて’ と言葉を交わすといそいそと参拝に向かった。 この千葉の青年とは、この後会うことは無かったが・・・無事に結願して、千葉に戻って、元気に暮らしているだろうか・・・。 何度も会って、互いに写真好きということもあったので、連絡先の交換でもしておけば良かったな・・・とも思う。


涅槃の道場 七十一番札所 剣五山 弥谷寺(香川県三豊市三野町大見乙70)
宗派 真言宗善通寺派
寺格 大本山
本尊 千手観音
創建年 (伝)奈良時代
開基 (伝)行基、聖武天皇(勅願)
アクセス 石段を登りはじめる前までの道は問題なし
寺伝によれば、聖武天皇の勅願により行基が堂宇を建立し、光明皇后の菩提を弔う為、『大方広仏華厳経(伝・光明皇后書写)』を祀り、寺院を創建したとされる。当初は中国、四国の八国が眺められたことにちなみ蓮華山八国寺と称したという。 また、空海(弘法大師)は7 - 12歳の期間、当寺にある岩窟である獅子之岩屋で学問に励んだという。
807(大同2年)、唐より帰国後の空海は当地を再び訪問し蔵王権現のお告げにより千手観音を安置し伽藍を再興し、山号を剣五山千手院、寺名を弥谷寺と改めたという。 空海は、現在、岩窟の護摩堂と呼ばれる洞窟や獅子之岩屋で護摩を修し、寺宝の『金銅四天王五鈷鈴』を納めたとされる。
また、「此岩窟大師四十二歳ノ契天下泰平五穀豊壌或ハ四十二歳厄除衆生ヲ救為千座之護摩修行シ跡伝ワレリ」とあり、これを聞いた後の住持が大師堂再建の折に弘法大師42才のお姿を刻み、奥之院本尊として厄除大師を祀ったといわれ、その後(焼失・盗難を恐れたなど諸説有り)、岩屋の中に石仏の厄除大師像・佐伯善通卿像・玉寄御前像を建立し、それまで祀っていた木像を秘仏としたことから、2体の厄除大師像が祀られている。
参拝後、風に向かって歩いていくような躍動感を感じる弘法大師像にしばし見入った。 その大師像に見送られるような心持ちで、登ってきた500有余の石段を下って次の札所を目指した。(弥谷寺から七十二番札所まで、車道5km)

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- 四国八十八ヶ所
2014年10月04日 20:00
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開放的な雰囲気のある本山寺

重要文化財である山門の前に立つ。 どっしりとした山門ではあるが、その門から続く塀があるわけではなく、山門をくぐらなくとも境内に入ることができる。 広く人々を迎え入れるといったような雰囲気が感じられる佇まいに思われた。


涅槃の道場 七十番札所 七宝山 本山寺(香川県三豊市豊中町本山甲1445番地)
宗派 高野山真言宗
本尊 馬頭観音
創建年 (伝)大同2年(807年)
開基 (伝)空海(弘法大師)
アクセス 問題のない道
寺伝によれば、大同2年(807年)、平城天皇の勅願寺として、空海(弘法大師)が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊として開創したという。 中世には寺領2000石、24坊を持つ大寺となって栄えた。
天正年間(1573年 - 1593年)、長宗我部氏の戦により讃岐国の主要寺院の大半は兵火を受けた。 当寺も例外ではなく諸堂を焼失したが、鎌倉時代建立の本堂(国宝)や仁王門(国の重要文化財)等は兵火を免れ現存している。 江戸時代には領主の生駒氏と京極氏により再興され、四国八十八箇所第70番札所に定められた。

本尊が馬頭観音なだけに、境内に馬の像が。 この二頭の馬、仲睦ましく、ほのぼのとした雰囲気で。

納経所でこんなことがあった。
バイクで日本一周をしている青年がいた。 たまたま見ていた四国遍路のガイドブックが同じなので、それがきっかけで話をした。 彼は、仕事を辞め、北海道から九州までをバイクで旅しているという。 四国では、四国八十八ヶ所を巡ることにしたという。
その青年と連れ立つように納経所に入った。 二人並んでご朱印をいただいていると、彼の納経帳に朱印をしたためた方が、「もらいものだけど、お接待です」と、大きな大福餅を彼に差し出した。 彼は、‘ありがとうございます。でも、食事をしたところなので大丈夫ですから’と、遠慮した。 すると、納経所の男性は、若い彼を諭すように ‘お遍路中に申し出のあったお接待は、基本的には断らずに受け取るものですよ。それが自分にとって必要のないものであるならば、他のお遍路さんにお接待として渡してあげればいいことだしね。それに、君のように若い方は、お腹がへることもあるだろうから、持っていて邪魔にならないものだしね。自分のように歳をとった者から若い人へのお接待という意味もあるんだよ’といったことを、若い彼に言った。彼は、あらためて ‘ありがとうございます’ といって嬉しそうに大福餅を受け取った。
四国における「お接待」いろんな意味があるんだなぁ~と思いながら、そのやりとりを聞いた。
多くのお遍路さんを見守ってきたであろう端正で優しげなお顔立ちの弘法大師像に見送られて、次の札所へ向かった。(本山寺から七十一番札所まで、車道13km)

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開放的な雰囲気のある本山寺

重要文化財である山門の前に立つ。 どっしりとした山門ではあるが、その門から続く塀があるわけではなく、山門をくぐらなくとも境内に入ることができる。 広く人々を迎え入れるといったような雰囲気が感じられる佇まいに思われた。


涅槃の道場 七十番札所 七宝山 本山寺(香川県三豊市豊中町本山甲1445番地)
宗派 高野山真言宗
本尊 馬頭観音
創建年 (伝)大同2年(807年)
開基 (伝)空海(弘法大師)
アクセス 問題のない道
寺伝によれば、大同2年(807年)、平城天皇の勅願寺として、空海(弘法大師)が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊として開創したという。 中世には寺領2000石、24坊を持つ大寺となって栄えた。
天正年間(1573年 - 1593年)、長宗我部氏の戦により讃岐国の主要寺院の大半は兵火を受けた。 当寺も例外ではなく諸堂を焼失したが、鎌倉時代建立の本堂(国宝)や仁王門(国の重要文化財)等は兵火を免れ現存している。 江戸時代には領主の生駒氏と京極氏により再興され、四国八十八箇所第70番札所に定められた。

本尊が馬頭観音なだけに、境内に馬の像が。 この二頭の馬、仲睦ましく、ほのぼのとした雰囲気で。

納経所でこんなことがあった。
バイクで日本一周をしている青年がいた。 たまたま見ていた四国遍路のガイドブックが同じなので、それがきっかけで話をした。 彼は、仕事を辞め、北海道から九州までをバイクで旅しているという。 四国では、四国八十八ヶ所を巡ることにしたという。
その青年と連れ立つように納経所に入った。 二人並んでご朱印をいただいていると、彼の納経帳に朱印をしたためた方が、「もらいものだけど、お接待です」と、大きな大福餅を彼に差し出した。 彼は、‘ありがとうございます。でも、食事をしたところなので大丈夫ですから’と、遠慮した。 すると、納経所の男性は、若い彼を諭すように ‘お遍路中に申し出のあったお接待は、基本的には断らずに受け取るものですよ。それが自分にとって必要のないものであるならば、他のお遍路さんにお接待として渡してあげればいいことだしね。それに、君のように若い方は、お腹がへることもあるだろうから、持っていて邪魔にならないものだしね。自分のように歳をとった者から若い人へのお接待という意味もあるんだよ’といったことを、若い彼に言った。彼は、あらためて ‘ありがとうございます’ といって嬉しそうに大福餅を受け取った。
四国における「お接待」いろんな意味があるんだなぁ~と思いながら、そのやりとりを聞いた。
多くのお遍路さんを見守ってきたであろう端正で優しげなお顔立ちの弘法大師像に見送られて、次の札所へ向かった。(本山寺から七十一番札所まで、車道13km)

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2014年09月27日 19:07
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八十八ヶ所霊場唯一の一ヶ所二札所

境内にある榧の大木が出迎えてくれた。 この木、弘法大師お手植えと言われている。 この境内には、四国八十八ヶ所霊場唯一の一箇所の境内に二札所がある札所だ。
最初境内に入ったとき・・・んっ?どちらが六十八番? どちらが六十九番? と、ちょっと迷って境内をウロウロ・・・。 そのうち配列がわかって・・・まずは六十八番札所から参拝を・・・。


涅槃の道場 六十八番札所 琴弾山 神恵院(香川県観音寺市八幡町一丁目2番7号)
宗派 真言宗善通寺派
本尊 薬師如来
創建年 弘仁13年(822年)
開基 空海(弘法大師)
アクセス 寺の周辺は、若干道が狭い
法相宗の日証が琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。 この老人は八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付けた。 行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年に空海(弘法大師)が阿弥陀如来を描き本尊として安置し、琴弾山神恵院(じんねいん)として第68番札所に定めた。
以来明治初期までは神宮寺として琴弾八幡宮が第68番札所であった。 しかし、明治政府による神仏分離令により琴弾八幡宮は琴弾神社と神恵院とに分離されることになり、神恵院は麓にある観音寺境内に移され、阿弥陀如来図も移転に伴い観音寺境内の西金堂に移された。 そのため、一ヶ所に二つの札所が存立することとなった。 (神恵院から六十九番札所まで、徒歩数秒)


涅槃の道場 六十九番札所 七宝山 観音寺(香川県観音寺市八幡町一丁目2番7号)
宗派 真言宗大覚寺派
本尊 聖観音
創建年 (伝)大宝3年(703年)
開基 (伝)日証上人
アクセス 寺の周辺は、若干道が狭い
伝承によれば、大宝年間(701年 - 704年)に、法相宗の日証が琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。 この老人が八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付けた。 その神宮寺として建立されたのが観音寺の前身であるという。
寺伝によれば、行基が養老6年(722年)に訪れた後、空海(弘法大師)が聖観世音菩薩像を刻み本尊として安置したという。
私が二つの札所を参拝し終えた頃、東京から黒い軽のワンボックスでお遍路に来ているおじさんに境内で再会。 ‘よぉ!’っと言って片手を挙げて、例の人なつっこい笑顔との再会だ。 おじさん、‘ここはどうなってんの?どちらから参拝するの?’ と、私と同じように迷っている。 そこで、自分も迷ったことを棚に上げて、六十八番札所と六十九番札所とを偉そうに説明したりした。 おじさん ‘ありがと!’ と、元気な足取りで参拝に向かった。 その後姿を見送りながら ‘お先に!’ と声を掛ければ、おじさん、振り返りもせずに、また手を挙げた。 この日の夜、この元気なおじさんから意外なことを告げられることになるとは・・・この時の私は知る由もなかった。。。(観音寺から七十番札所まで、車道4.7km)

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八十八ヶ所霊場唯一の一ヶ所二札所

境内にある榧の大木が出迎えてくれた。 この木、弘法大師お手植えと言われている。 この境内には、四国八十八ヶ所霊場唯一の一箇所の境内に二札所がある札所だ。
最初境内に入ったとき・・・んっ?どちらが六十八番? どちらが六十九番? と、ちょっと迷って境内をウロウロ・・・。 そのうち配列がわかって・・・まずは六十八番札所から参拝を・・・。


涅槃の道場 六十八番札所 琴弾山 神恵院(香川県観音寺市八幡町一丁目2番7号)
宗派 真言宗善通寺派
本尊 薬師如来
創建年 弘仁13年(822年)
開基 空海(弘法大師)
アクセス 寺の周辺は、若干道が狭い
法相宗の日証が琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。 この老人は八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付けた。 行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年に空海(弘法大師)が阿弥陀如来を描き本尊として安置し、琴弾山神恵院(じんねいん)として第68番札所に定めた。
以来明治初期までは神宮寺として琴弾八幡宮が第68番札所であった。 しかし、明治政府による神仏分離令により琴弾八幡宮は琴弾神社と神恵院とに分離されることになり、神恵院は麓にある観音寺境内に移され、阿弥陀如来図も移転に伴い観音寺境内の西金堂に移された。 そのため、一ヶ所に二つの札所が存立することとなった。 (神恵院から六十九番札所まで、徒歩数秒)


涅槃の道場 六十九番札所 七宝山 観音寺(香川県観音寺市八幡町一丁目2番7号)
宗派 真言宗大覚寺派
本尊 聖観音
創建年 (伝)大宝3年(703年)
開基 (伝)日証上人
アクセス 寺の周辺は、若干道が狭い
伝承によれば、大宝年間(701年 - 704年)に、法相宗の日証が琴弾山で修行をしていたところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。 この老人が八幡大明神であることを知った上人は、その琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付けた。 その神宮寺として建立されたのが観音寺の前身であるという。
寺伝によれば、行基が養老6年(722年)に訪れた後、空海(弘法大師)が聖観世音菩薩像を刻み本尊として安置したという。
私が二つの札所を参拝し終えた頃、東京から黒い軽のワンボックスでお遍路に来ているおじさんに境内で再会。 ‘よぉ!’っと言って片手を挙げて、例の人なつっこい笑顔との再会だ。 おじさん、‘ここはどうなってんの?どちらから参拝するの?’ と、私と同じように迷っている。 そこで、自分も迷ったことを棚に上げて、六十八番札所と六十九番札所とを偉そうに説明したりした。 おじさん ‘ありがと!’ と、元気な足取りで参拝に向かった。 その後姿を見送りながら ‘お先に!’ と声を掛ければ、おじさん、振り返りもせずに、また手を挙げた。 この日の夜、この元気なおじさんから意外なことを告げられることになるとは・・・この時の私は知る由もなかった。。。(観音寺から七十番札所まで、車道4.7km)

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2014年09月26日 23:03
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鶏頭の花を眺めるか・・・お地蔵様

のどかな田園風景の中を走っていくと・・・六十七番目の札所が見えてくる。 地元の人々には古くから、山号の小松尾山がそのまま寺名として小松尾寺と親しまれてきた。

涅槃の道場 六十七番札所 小松尾山 大興寺(香川県三豊市山本町辻字小松尾4209番地)
宗派 真言宗善通寺派
本尊 薬師如来
創建年 弘仁13年(822年)
開基 空海(弘法大師)
アクセス 若干道が狭い箇所もあるが概ね問題なし
天平14年(742年)に東大寺の末寺として建立され、嵯峨天皇の勅願によって空海(弘法大師)が弘仁13年(822年)に開基し、本尊の薬師如来を刻んで安置した。
天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって本堂以外を焼失。慶長年間(1596年 - 1615年)に現在地で再興される。
お遍路は、当然ながら結願を目指して次の札所へと進んでいく。 しかし、この日のお遍路は、ある種のこの日の目標があったような気がする。 目標というより楽しみ・・・かな。 それは、この日、弘法大師空海の生誕の地を訪れることができるから。 そんなことも思いながら、山門に入る前にお迎えいただいた凛々しい弘法大師像に、参拝後は見送られて次の札所へと向かった。(大興寺から八十八番札所まで、車道約8.5km)

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鶏頭の花を眺めるか・・・お地蔵様

のどかな田園風景の中を走っていくと・・・六十七番目の札所が見えてくる。 地元の人々には古くから、山号の小松尾山がそのまま寺名として小松尾寺と親しまれてきた。

涅槃の道場 六十七番札所 小松尾山 大興寺(香川県三豊市山本町辻字小松尾4209番地)
宗派 真言宗善通寺派
本尊 薬師如来
創建年 弘仁13年(822年)
開基 空海(弘法大師)
アクセス 若干道が狭い箇所もあるが概ね問題なし
天平14年(742年)に東大寺の末寺として建立され、嵯峨天皇の勅願によって空海(弘法大師)が弘仁13年(822年)に開基し、本尊の薬師如来を刻んで安置した。
天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって本堂以外を焼失。慶長年間(1596年 - 1615年)に現在地で再興される。
お遍路は、当然ながら結願を目指して次の札所へと進んでいく。 しかし、この日のお遍路は、ある種のこの日の目標があったような気がする。 目標というより楽しみ・・・かな。 それは、この日、弘法大師空海の生誕の地を訪れることができるから。 そんなことも思いながら、山門に入る前にお迎えいただいた凛々しい弘法大師像に、参拝後は見送られて次の札所へと向かった。(大興寺から八十八番札所まで、車道約8.5km)

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